Vol. 28 ·No. 36 · August 30, 2026
パウロの信仰の起源
イエス・キリストの主権(後編)
新しい体験
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イエスの主権(後編)
ジョン・グresham・マーチェン著
しかし、福音書における「主」という称号の使用頻度が低いことが、必ずしもその称号が原始エルサレム教会で一般的ではなかったことを示しているわけではないだろうか。覚えておくべきことは、エルサレム教会によってイエスに当然適用された「キリスト」という称号もまた、福音書では非常に頻繁に使用されていないということである。なぜ、一つの称号の福音書での使用頻度が低いことが、その称号がエルサレム教会で使用されていなかったという議論に対して、もう一つの称号ではそのような議論が全く成立しない場合に、反対の議論として用いられるのだろうか。ボウセットは準備ができているが、その答えは全く不十分である。「キリスト」という称号は、ボウセットが言うには、終末論的な称号であった。それは、エルサレム教会の信仰では、イエスが栄光のうちに再臨するまで到達しないと信じられていた尊厳を指していた。したがって、その称号は、イエスの地上での宣教の記録においては容易に適用されることはなかった。
ゆえに、その称号の場合、福音書の伝統へのその称号の混入を妨げる特別な障害があった。しかし、「主」という称号の場合、そのような障害はなかった。したがって、その称号が福音書の伝統に取り入れられなかったことは、特別な説明を必要とし、その唯一の可能な説明は、エルサレム教会ではその称号が使用されていなかったということである。
この議論には、非常に多くの議論の余地のある主張が詰め込まれており、簡単にまとめることは難しいであろう。「キリスト」という称号は、純粋に終末論的な称号であったか? それはパウロにおいては純粋に終末論的な称号ではない。新約聖書のどこにおいても、純粋に終末論的な称号ではない。とにかく、ボセットはここで、イエスのメシア性に関する、せいぜい問題のある概念を採用しており、最も広く異なる見解の人々によって拒否されている。「主」という称号は、王国を最終的に導き入れるお方としてではなく、特に教会の現在の主としてイエスを指していたのか? 初期の教会におけるイエスは、「来たるべき」キリストと呼ばれるよりも、「来たるべき」主と呼ばれることが多かったか? そして、イエスは現在の主と呼ばれるよりも、現在のキリストと呼ばれることが多かったか? これらの質問に絶対的な確実性をもって答えることはできない。とにかく、ボセットが、ある称号において他の称号よりも終末論的関心の割合が多いと指摘できたとしても、そのような区別は相対的なものである。そして、もしも「キリスト」という称号が福音書において頻繁に使用されていないことが、エルサレム教会におけるその称号の存在しないことを示していないならば、「主」という称号が福音書において頻繁に使用されていないことは、さらに重要ではない。
「人の子」という称号に関して、ブセットは「キリスト」という称号について述べるものとやや類似する指摘をしている。ブセットは、「人の子」という称号は終末論的なものであったため、福音書の物語的部分に導入されることはなかったと言う。しかし、ブセットの理論のパラドックスの一つは、ブセットによると、「人の子」という称号(使徒伝七章五十六節を除いて、伝統的にイエスの言葉でのみ現れ、決してイエスについて人々が話す際に使用される称号として現れない)は、エルサレム教会でイエスについて話す際に使用される特徴的な称号であったとされているということである。もし、エルサレム教会のイエスに対する信仰が、ブセットが想定するように、排他的に人の子の教義であり、また、その教会が歴史的事実にほとんど関心がなかったとすれば、「人の子」という称号が、その終末論的な性格にもかかわらず、福音書の物語に侵入することを許されなかったのは、やや奇妙に思われる。他の仮説は常に示唆される—イエスが実際に「人の子」という称号を、自分について話す際に、やや謎めいた方法で使用し、自分自身の特別な指定として使用したという事実の記憶が、新約における称号の使用の奇妙な制限において保存されているという仮説である。そういう場合、この一つ称号に関して確立された正確さから見て、福音書の「主」という他の称号に関する証言は、軽々しく拒絶されることはできない。
しかし、「主」という称号が原始エルサレム教会で使用されていたという証拠は、福音書のみに含まれているわけではない。他の証拠は、パウロの手紙にも現れている。
The most obvious fact is that Paul himself uses the term as the characteristic title of Jesus. And it is equally evident that he did not invent this usage. Evidently it was a continuation of a usage which prevailed before he began his work. So much is fully admitted by Bousset. But whence did Paul derive the usage? Or rather, supposing that he began his own use of the title at the moment of the conversion, in accordance with the representation in Acts ("Who art thou, Lord?"), whence did he derive his assumption that the title was already in use? The most obvious view is that he assumed the title to be already known because it was in use in the early Jerusalem Church. The matter-of-course way in which Paul applies the title "Lord" to Jesus has always, until recently, been taken as indicating that the title had been prevalent from the very beginning of the Church's life.
But at this point appears one of the most important features of Bousset's theory. Paul derived the title "Lord," Bousset believes, from those who had been Christians before him; but he derived it, not from the Jerusalem Church, but from the Christian communities in such cities as Antioch, Tarsus, and perhaps Damascus. It is in these communities, therefore, that the genesis of the title "Lord," as applied to Jesus, is to be placed.
Attention has already been called to the difficulties which beset this interposition of an extra link between Paul and the Jerusalem Church. It has been shown that what Paul "received" he received not from the churches at Antioch and Tarsus but from the original disciples at Jerusalem. But in addition to the general considerations which connect the whole of Paulinism with the Jerusalem tradition about Jesus, there are certain special indications of a Jerusalem origin of the title "Lord."
このような兆候の1つは、ガラテヤ 1:19 にあるかもしれない。パウロが、回心から3年後にエルサレムを訪れたことに関連して、「主の兄弟ヤコブ」について語るとき、「主の兄弟」というのは、エルサレムでヤコブに与えられた呼びかけ方であったという自然な推論が成り立つ。そしてもしそうなら、「主」という称号は、エルサレム教会で使用されていたことになる。当然、その推論は絶対に確実なものではない。パウロは、ガラテヤ教会でヤコブに使用されていた呼びかけ方や、パウロ自身が一般的に使用していた呼びかけ方であったかもしれないからだ。しかし、この箇所が、洗練されていない読者に与える自然な印象は、パウロが、物語が参照する時点と場所でのヤコブの仲間たちによってすでに固定された用語法を使用しているということである。ペテロについて語るとき、パウロは実際に、名前のギリシャ語形ではなく、アラム語形を使用していることにも注意すべきである。エルサレム教会の指導者たちに関して、パウロは一般的にエルサレムの慣習に従っているという兆候がある。そして、エルサレムの状況が述べられているガラテヤ 1:18、19 のような箇所の証拠は、特に強い。【BVR 123】この箇所で「主の兄弟」という称号が使用されていることは、それだけでは絶対に決定的なものではない。しかし、他の証拠と関連して考えると、イエスに「主」という称号が、初期のエルサレム教会で広く使用されていたことを強く示唆している。
